関西出張の際に撮った写真をだらだらと追加して行くという、
正に場繋ぎ的ブログ記事の第2回目。
今回のテーマ(正確にはテーマなど存在しない)は太陽の塔です。
ご存知の通りですが1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)のシンボル。高さは実に65m。
塔の下に見える黒い粒が「人」。ちっちゃいです。
実に堂々とした佇まいである。当時としてはかなり大きな建築物の一つであったに違いない。
いろいろ調べてみると1970年(昭和45年)は、建築基準法改正によって絶対高さ制限が撤廃され、
容積率規制が全面導入された年であるようだ。(それ以前は特定街区でのみ31mを超える建築が認められていた。)
すると地方都市でも高さ31mを超えるビルが建ち始まり、
1970年代末には国内の100m以上の超高層ビルが30棟を超えたそうである。
※上記で何度か記載した「31m」という基準は1960年代まで建物の高さを制限する「百尺規制」(100尺=約30.303m)
が存在していたからである。
そんな時代の最中に立てられた「太陽の塔」は40年以上経過した今でも充分に人の目を楽しませてくれる。
将来的には耐震工事を施した後、内部の公開も予定しているようなのでそのときは是非、足を運びたいものである。
こちらが背面?側。丁度、太陽が顔を出してくれました。この瞬間に正面に走ってまわり込もうかと思ったのですが、
歳を考えて断念しました。急に走り出すとケガします。
という訳で「黒い太陽」(過去を表現しているそうです。)を撮影。これはこれで・・
この黒い太陽の部分は塗装かと思いきや、タイルで施工してありました。(調べたら信楽焼でした)
40年経過しても色鮮やかな理由は一見にしかずでした。
(さすがに白いコンクリート部分の樹脂塗装は経年劣化が激しい様子)
正面側の「太陽の顔」は「現在」、下の写真の「黄金の顔」は「未来」をそれぞれ表現しているとか。
太陽が沈むと目のような部分が光るらしい。
この他にも屋内地下展示場にもう一つ「心」を表したモニュメントが在ったらしいのですが、現在は行方不明だそうです。
ちょっとしたミステリーですが、運営している行政法人では未だにこの「地底の太陽」をウォンテッドしている様子。
心当たりの在る方は、是非ご連絡を。
さておき、この日は土曜日でしかも祝日であったにも関わらず、園内には数えるほどしか人がいない。
塔のそばにあるイベントスペースも閑散としたものだった。
以前、つくば市にある科学万博記念公園に行った時も似たような感じだったのを覚えている。
この手の施設の運営は大変むずかしいということか。
トラス構造の造作物が設置されたイベントスペース。
当時、太陽の塔を囲むようにして立てられていたという大屋根の一部だろうか。
(下参考写真掲載。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より出典)
きっと、この升状のユニットの一部なのかもしれない。
上の写真に関係して、「太陽の塔」命名についてこんなエピソードがある。
屋根から塔の上半分が突き出す形で建てられた様を見て、
当時、小松左京(SF作家)が某都知事の小説『太陽の季節』の中の障子を破る場面を連想し、
それを聞いた岡本太郎が「太陽の〜」と命名したとかどうとか。本当だとしたら面白い話だ。
(そのシーンについては個々の判断でお調べ願います。このブログは良い子のみんなが見ている可能性は
ほとんどありませんが、出典は控えさせていただきます)
※
イベントスペースの写真の奥に見える建物(パビリオン)に行けばそのへんの事実関係も資料展示してあるのだろうが、
残念ながらタイムアウト。次に移動です。仕事で来ているのです。気分だけは。
追記:おみやげは「太陽の塔竣工図」A1版が個人的にオススメです。ちゃんと青焼きです。